笠松のフィールドサーベイの報告

本日、笠松の街のフィールドサーベイをしました。
笠松は、かつて幕末に美濃国の一部が笠松県と呼ばれていた頃、県庁が置かれた場所です。明治4年1871年)には岐阜県庁となり、明治6年1873年)に岐阜市に移されるまで岐阜の行政の中心でした。今もその名残があり多くの古い建物が残っていました。
笠松町の西側を流れる境川は現在は岐阜市岐南町笠松町の境界となっていますが、戦国時代以前は木曽川が流れており、美濃国尾張国の境でした。現在の場所に木曽川が流れるようになったのは、天正14年(1586年)の大洪水以降だそうです。


笠松船場
物資を運ぶ大八車の車輪が石の隙間に食い込まないように大きな石を敷いてあったそうです。
ちなみに現在の石畳は明治11年1878年)の時に改修されたものです。


笠松の川港は、交通の要所でした。木曽川の上流から木材や薪などが運ばれ、下流からは米や塩、海産物などが運ばれていました。港で荷揚げされた荷物は、大八車を使って商人の蔵に貯えられ各地に運ばれたそうです。
また、木曽川を渡るために中山道加納宿東海道 宮宿(熱田)を結ぶ岐阜街道の渡し船があり、渡船場としても栄えました。この街道は「御鮨街道」とも呼ばれています。


今回のフィールドサーベイはここから始まります。


下本町の追分。右に進むと笠松宿があります。


本願寺笠松別院。浄土真宗本願寺派の寺院。


西町の町並み。


盛泉寺。境内にある大イチョウは樹齢約450年と言われています。


東宮町の町並み。奥に盛泉寺が見えます。


上本町の真宗大谷派の法伝寺。
参道の北隣には愛宕神社をお祀りしているお社がありました。


新町のお社。愛宕神社と天王稲荷が祀られています。


善光寺。かつてここには笠松陣屋の牢屋あったそうです。


キリスト教の信仰が禁止されていた江戸時代、この地方にも隠れキリシタンがいたそうで、見つかると木曽川河畔の「大臼(デウス)塚」で処刑されたそうです。
この処刑場で首切り役人として働いていた役人の子孫が、天保15年(1844年)処刑された人びとの御霊を祀るために「南無阿弥陀仏」と「南妙法蓮華経」の石碑を建てました。この石碑は明治時代に行われた堤防改修工事に伴い善光寺内へ移されました。


新町にある住宅。外壁をよく見ると、屋根神様でしょうか、神棚のようなものがありました。


問屋 高島家。古くから味噌・たまりを売っていたそうです。


将軍徳川家康・秀忠に鮎鮨を献上していました。
江戸に着くころに鮎鮨が発酵して食べ頃になるように、岐阜から江戸まで5日間で運んでいたようです。


岐阜街道を別名「御鮨街道」と呼びます。笠松では「鮎鮓街道」と呼ぶそうです。


八幡町にある日蓮宗のお寺。


笠松には蔵が多く残っています。


八幡町の町並み。右奥は八幡神社です。


八幡神社。八幡町にあります。


堤防の横にある住宅。県町です。


笠松陣屋跡。交通の監視とともに木曽川の治水の役割もあったそうです。
明治元年(1868年)笠松県が置かれ、県庁舎が笠松陣屋に置かれました。
明治4年1871年廃藩置県により美濃国岐阜県となると、陣屋は岐阜県庁舎として使用されました。


笠松陣屋跡で今回のフィールドサーベイは終了です。
最後はいつもの決めのポーズ。

(富田)